Makiko's Art&Illustration blog

美術館に行ったり、イラストを描いたり、本を読んだり・・・いろいろ書くと思います

モローとルオー展 (2013.12.10)

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象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モロー(1826−1898)。国立美術学校の名教授としてマティス やマルケなど多くの画家を育てたモローが最も愛した生徒がいました。後に20世紀最大の 宗教画家と呼ばれるジョルジュ・ルオー(1871−1958)です。モローはルオーの才能を見抜き、 熱心に芸術上の助言を与えました。ルオーはマティエールや内的ヴィジョンへの感覚を師から 受け継ぎ、やがて自身の作品の中で我がものとしていきます。
「我が子ルオー」「偉大なる父」と彼らの往復書簡の中で呼び合う二人の間には、師弟を超えた 特別な絆がありました。モローは遺言によりルオーをモロー美術館初代館長に任命し、自分 亡き後も愛弟子を導き続けます。ルオーはモローへの感謝を生涯忘れることはなく、精神的な 父としてのその存在は彼の芸術と人生に深い影響を及ぼしたのです。
汐留ミュージアム開館10周年を記念する本展は、ギュスターヴ・モロー美術館館長監修により企画 され、パリに先駆けて開催される世界初の二人展です。モロー晩年の未公開作品やルオーの美術学校時代の作品など日本初公開を多く含む作品がフランスからやってきます。油彩画、素描、 書簡など約70点を通して、モローとルオーの芸術と心の交流の軌跡をたどる貴重な展覧会です。



モローとルオー −聖なるものの継承と変容− | 汐留ミュージアム | Panasonic

ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau(1826-1898)

フランス象徴主義の画家。パリで建築家の父と音楽家の母のもとに生まれ、18歳で画家に弟子入り、20歳で国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学。在学中に2度ローマ賞に応募するも落選。それを機に退学したが政府からの発注やサロン、パリ万博への出品など制作と発表の機会は多かった。31歳の時に私費でイタリアに滞在して、各地を移動しながら名作を模写して研鑽を積む。帰国後はイタリアで身に付けた様式を自作に反映させ、サロンへの出品を続ける。1888年美術アカデミー会員となり、1892年にかつて学んだ美術学校の教授に就任し、ルオーやマティスらを指導した。

ジョルジュ・ルオー Georges Rouault(1871-1958)

フランス20世紀を代表する画家。パリの下町ベルヴィルで生まれ育つ。幼少期に落書きを見た祖父が将来画家となることを予言。14歳でステンドグラス修復職人に徒弟奉公に出る。19歳で国立美術学校に入学。21歳の時からギュスターヴ・モローに師事。美術学校では特に優れた生徒として、在学中2度に渡りローマ賞に挑戦するが受賞を逃す。27歳の時にモローが死去し、ボザールを退学する。1902年モローの自宅は美術館となり、ルオーは初代館長に就任。1917年に画商ヴォラールと専属契約を締結。ヴォラールのもとでは絵画だけでなく、多数の版画集を制作、出版する。1940年代以降は欧州各地、アメリカで回顧展が多数開催される。死去に際しては政府による国葬が執り行われた。


何気に初めて行く場所!
フツーにパナソニックのオフィス?内にあって
ちょっとキンチョー。笑


ギュスターヴ・モロー象徴主義の先駆けの人。
ジョルジュ・ルオーは、モローの愛弟子であり、
20世紀最大の宗教画家。
二人はお互いを「親愛なるわが子」「偉大なる父」と呼び、
手紙のやり取りをしていた。
今回は作品だけでなく、
そんな二人の関係までも
じっくり見られたのが面白かった。



「石臼をまわすサムソン」の
習作~油彩が出来上がるまでの行程で
テーマを「自分ならどのように扱ったか??」を実際に示して
弟子の作品を師匠が模写する
という教え方が特に興味深かった。



かといって、作風が似通っているわけではなく。。。
モローの描く女の人(悪女)は艶かしいのに対し、
ルオーの描くジャンヌ・ダルクは勇ましい感じ。
やり方を強要させるようなことはしない師匠と
師匠の教えを基に、自己の描き方を
確立させていったであろう、弟子。。
とにかくステキでした。:-)☆